副会長 安藤延男
第6回大会 参加記
大会全体
第6回日本コミュニティ心理学会に感ず
副会長 安藤延男
2年ぶりの学会参加だった。教育講演、シンポジウム、ポスターセッション、公開シンポジウムなど、充実した内容にもかかわらず、忙しさを感じさせない研究大会だった。プログラムづくりと会場設営の工夫、悠揚迫らぬ「櫻島山」(さくらじまやま)の景観などのお蔭であろう。
会期前日(6月27日夕)の理事会では、通常会計の前年度決算や次年度予算、『ハンドブック』(仮称)編集の進捗状況、研究会・研修会活動の成果、若手研究者奨励金の初受賞者3名の決定など、学会が着実に発展していることを実感できた。
そうした中で、最近の論文投稿者のマナーが話題になった。先ず「手紙のない投稿論文だけの封筒が、突然編集者に送り付けられることがある」というのである。初校や再校のゲラを返送するのならともかく、新投稿の封筒に生原稿だけしか入っていないのがあると聞いて、一瞬「へー!」という声があがった。ちなみに、理事、監事はいずれも40代以上である。「そんな人がいるの?」という響きがあった。「論文投稿規程」とは別に「会員マナー規程」を作るべきでは・・・、などという話にも発展した。
もう一つ、「謝辞」の問題が話題に上った。脚注か論文末尾に、「誰々先生の懇篤なるご指導に感謝します」と書くのは、論文作成上のマナーとして結構だが、その誰々先生が「もしも懇篤に指導し添削をしてくれていたなら、こんな初歩的なミスがあろうはずはないのだが?」などと、論文査読をしながら訝しく思うことがある。思うに、これは著者本人と「先生」の、双方にまたがるモラル・マナーの問題ではなかろうか。
それにつけても想い起こすのは、恩師牛島義友先生(故人)に「宗教的情操の因子分析的研究」(拙稿:1962)の素稿につき校閲方をお願いしたときのことである。先生は、まず論文表題下の第一著者名にご自分の名前を見つけ、これをおもむろに赤ペンで消された。そして、「単著と共著では、業績としての重みが著しく違います。そのうえ、これは、君でなければ書けない論文です」とおっしゃったのである。そこで私は、「それでは、謝辞として脚注に書かして戴きたいのですが・・・」と申しあげたところ、「私への謝辞なら不要です。この主題で論文を九大の院生が書いたならば、牛島が指導しているに決まっているということを、ちゃんとした学会員なら誰でも承知しているからです」と言われた。そして、その日のうちに、添削済みの真っ赤な原稿が私の手元に戻って来たのだった。牛島先生の不肖の弟子を自任する私は、今も四十余年前のあの「訓え」を拳々服膺している。
ともあれ、理事会メンバーには2泊3日、一般会員には1泊2日の第6回研究大会であった。
梅雨末期の空の下、清々しい再会や新たな出会いの時を準備して下さった平川忠敏大会委員長(鹿児島大学医学部教授)、並びにご当地の会員各位に対し,心よりの感謝を表したい。(平成15年7月3日<金>記)